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設立20周年を迎えたリボンの会。また新たな第一歩を踏み出すひとつの区切りとして、会の誕生から今までのルーツを辿ってみました。
会の誕生のきっかけは、私の長男が「慢性骨髄性白血病」と診断を受けたことでした。1992年の春、ある日当然「息子さんは白血病です」「残された時間は3年です」と告げられ、頭の中が真っ白になったことを憶えています。今では、白血病など血液の病気の治療は治癒を目的に、医療者と患者が一つのチームを組んで行われるようになり、最初から患者にも病名が告げられるようになりました。しかし、まだ「不治の病」と云われていた当時は、本人には白血病の病名を告げられることは、殆どなかったと思います。血液医療はこの20年で大きく発展してきましたが、人の心の悲しみや不安は、今も昔も変わらないように思います。
息子が白血病との診断を受けたときは、骨髄移植が唯一の治療法と云われていました。助かる可能性のある治療法が有るにも拘らず、その治療を受けることができない患者がいることは不平等だと、骨髄移植に携わっておられた先生、医療関係者、ドナー登録者、患者・家族のボランティアの皆さんが、垣根を越えて草の根運動を行いました。これが国を動かし、1991年12月に(財)骨髄バンクが誕生しました。息子が発症したのはその4か月後ですが、当時はまだ骨髄移植と云う名前も知らず、私は藁をもすがる思いで、家族のHLA(白血球)の検査をしましたが、息子には合いませんでした。その後福岡に骨髄バンクの事務所が有ると聞き、直ぐに訪ねました。それから病名を知らない息子に隠れて、街角に立ってチラシ配りをして“骨髄バンクにドナー登録を!”と呼びかけました。この経験がきっかけで、患者家族の苦しみは孤独であり、やり場のない不安や悲しみを乗り越える為には、励まし合ったり、語り合う場所が必要だと強く感じるようになったのです。その後、骨髄バンクの支援者に協力を仰ぎ、1993年に「リボンの会」を設立いたしました。当時は、訪ねて来られる患者家族に、希望を与えられる充分な体験や医療情報も少なくて、「何とかしてあげたい」の一心で会の運営を模索していました。ちょうどその頃に、温かいゴッドハンドを差しのべて下さったのが、谷口修一先生です。穏やかで悠々とした風貌は、患者や家族の拠りどころになりました。
このときからリボンの会は、国家公務員共済組合連合会「浜の町病院」の先生、医療従事者の方々に温かいご支援をいただいております。にも拘わら、実はリボンの会は、浜の町病院の院内患者会ではないのです。2003年に谷口先生が浜の町病院を異動されてからは、衛藤先生が引き継いで下さり、現在も丁寧に患者家族の皆さんに寄り添って下さっています。 谷口先生はリボンの会の「産みの親」、衛藤先生は「育ての親」です。
2014年、浜の町病院は新しい場所に建て変わりました。最先端の医療設備の整った病院でこれまで同様に、会議室をお借りして交流会や講演会を実施しております。
先生もお忙しい中を、時間の許す限り参加して下さいます。そして患者の不安に耳を傾け、的確にバランスの取れたアドバイスをして下さいます。診療中は限られた時間の中ですから、互いの思いが伝えきれない事も多く、時に患者さんに厳しく辛い判断を迫らねばならない。患者と主治医は治療を行うには、互いの信頼関係が重要で、敵(病気)と闘うためにも、患者の集うこのような場所で膝を付き合わせて、相互を理解し合うことは大切なこととおっしゃいます。微力では有りますが、リボンの会はその架け橋になれるよう努めたいと思っています。
息子の発病は、私の中の価値観のようなものを変えました。見えなかった景色が見えるようになり、素晴らしい人たちとの出会いも沢山ありました。当たり前のような「おはよう」や「ありがとう」「おつかれさま」の優しい言葉のやりとりも、明るい笑い声も見慣れた風景も、とても愛おしくて、何ものにも代えられない宝ものに思えます。
患者や家族にとって、死と向き合う体験は大きなショックであり、肉体的にも精神的にも不安と苦しみを伴います。治療が終わっても、仕事や家庭で人間関係が、上手く続けられなくなった人もおられるでしょう。趣味や生きがいを見失ってしまった人もおられるでしょう。
「リボンの会」では、先生を交えた勉強会や交流会を定期的に行い、医療知識の向上を計っています。病という敵と闘うためには、患者の思いを先生へ、先生の思いを患者へ繋ぎ、互いの思いを共有し信頼関係を築くことも、患者会の使命と考えます。
誰かに話すことで気持ちが軽くなったり、同じような経験をした先輩患者の話を聞くことで、問題解決のヒントが見つかるかも知れません。あなたは決してひとりではありません。誰にでも起こり得る不安や怒りや悲しみの感情を、一人で抱え込まないで「リボンの会」に来ておしゃべりしませんか。
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